
ようこそ。
昨日から養生と陰陽五行のことを書き始めました。我が家にとってこの冬の一番の関心事であり、大事にしてきた事柄です。
その、陰陽五行のことを語ろうとすれば、その歴史と奥深さに、「自分なんかが語っていいのだろうか?」という声がどこからともなく現れます。
だから、私がするのは、「陰陽五行とはこういうものです」という表現ではなくて、
「私が出会った陰陽五行というものを、
私はこういうものだと思っていて、
それは私の日々にこんな風に息づいています」
という表現です。
それは、私が「陰陽五行とはこういうものだ」と言える専門家ではないというのはもちろんですが、そもそも、専門家といえどそれぞれ捉え方や表現は異なります。
同じ事柄を探求していながら、主張が異なることから対立する。そんな姿を人生の中でもたくさん見て、そして悲しく複雑な気持ちを抱いてきたように思います。
その事実から、人と人が本当に分かり合うことは難しい、いや、無理なのではないか、という見方を導くこともできます。
でも、そうではなくて、
一つの事柄についての捉え方は人の数だけあって、それはごく自然なこと。だからこそ、お互いがどうしてそれをそう捉えているのかをよく聴き合おう。そういう見方を導くこともできます。
そうした「見方」についての学びを、2018年後半から「ナラティブ・アプローチ」という体系から学んでいます。
Narrative Assembly – ナラティヴ・アプローチ:関心を分かち合うコミュニティ
Narrative Assembly ナラティヴ・アプローチ:関心を分かち合うコミュニティ
こうして例えば「陰陽五行」というものを語ろうとする時にもその学びが自分の中で息づいていることを感じ、そしてその前提を持って私が言葉を紡いでいることも知っていただこうと思って書いています。妻に「昨日の続きが楽しみだったのに・・・」と残念がられながら書いています。
私はそのナラティブ・アプローチの学びを経て、ある事柄に対して「それとはこういうものだ」と断定的に言うことはできないと思うようになりました。それが、言葉というものがそもそも含んでいる性質だと思うし、文化や社会はその性質を含みながらできていると思うからです。
逆に言うと、ある事柄について、ある人が「こういうものだと思う」というのなら、その時点においてその人にとってはそれが現実であり真実だということ。それが正しくないといって、どこからかジャッジを下す存在が現れるようなことはないということです。
私のこれまでの人生の中では、間違った知識を持っていたり、間違ったことを考え話していたら、得体の知れない何かに罰せられるような感覚に苛まれることがあったものです。今もその感覚が去来することはありますが、そうでない見方を選択する余地があることを認識できるし、より主体的に意図的に見方の選択ができるようになったことを実感しています。
「では、間違ったことを信じたままでいいのか?」という声もまた自然と現れます。
この「間違ったこと」という見方もまた何かの見方に基づいて生まれていて、その見方もまた人の数だけある見方の中の一つで。
・・・「小難しい話だな~」という声も現れますが、でも、実際に私たちの関係性の中で起きているのはそういうことなんだと思うんです。
「見方は人の数だけある」と思うとき、私の中でイメージされることは、
人はそれぞれ、
数年から数十年という長大な時間を生き、
膨大な量の経験をする中で、
一人ひとり絶対に同じにはなりえない
「感覚体系」をつくりあげている
ということ。
そして、同じことを聞いたとしても、それを聞いた時の状況も、前後の体験も、心や体の状態も同じにはなりえないのだということ。だから、一見「同じ事柄だと見えること」を体験したとしても、その感じ方は異なるのだと思うのです。
誰かが何かを感じているその時、
その感じ方は
本当にそこにしかない尊いもので、
世界にも、全宇宙にも
そこにしかないもの
なんだと思うんです。
それを言葉にしようとするときには、言葉にする経路がまたそれぞれに異なり、場合によっては共有している社会文化の中で当たり前とされる表現の中で言葉にしようとすることで、それだけ貴重なその体験の感覚がどこかで聞いたような言い回しにおさまってしまうことも起きるのだと思います。
もちろん、科学的にみて“間違った”方法が取られ続けることで命が脅かされたり、人権が侵害されたり、危険が生じたりすることもあるでしょう。だから、科学的な探究、知見の共有、一人ひとりの思考と言葉が世界を飛び交うことには意味があります。
それでも、
その「科学的に正しいかどうか」ということの判断をしようとしたときに、そこには「その判断のもととなる見方」が存在している。
その見方は、無数にあり得る見方の中で、社会の中で大勢を占める見方が採用されていることが多い。
その大勢を占める見方を無意識に採用するだけでなく、
それ以外の見方も存在しているということ、
そしてそれ以外の見方が採用されることがあってもいいのだということを、
含んでおきたいし、そういう社会であることを願います。
社会の中で大勢を占める見方を元にした「科学的に正しい」という文脈の中で生きねばならないという見方を持って、それを自分の思考や行動の全てにまで適用しようとしているうちに、自分というものがどこかにいってしまう。
そんなことが、現代の中では起きているのではないかと思っています。それは私の中でも起きていたし、今も、これからも起こり得ることだと思います。多くの友人がそれを体験しているようにも見えています。
だから、ある事柄について語られるときに、
それが正しいかどうかよりも、
それを語っている人にとっては暫定的であったとしても真実である
という見方を持っておきたい。
そして「その『真実だ』という解釈はどんな風にその人の中で“盤石な存在感”を持つようになったのだろう?」と、平たくいえば、目の前の人は「どうしてそう思っているんだろう?」と、肯定も否定もなくただ好奇心から、相手を、世界を理解しようとするところから知り合おうとすること。
そういうあり方を、これまで学んできた“ファシリテーション””NVC”から感じ、ナラティブ・アプローチの学びを通してそのより具体的な扱い方を知っていっています。
・・・陰陽五行のことを語ろうと思っていたのですが、私の学びの旅路の話になりました。
陰陽五行は世界の見方の一つ。そして、今日のこの語りもまた、世界の見方についてのこと。
世界をどんなものだと見て生きていくか。それは、毎日自分の周りで起こる出来事の見え方を変える、変化のレバレッジとしてとても大きな要素だと思うんです。
今日も長くなりました。ここまで読んでくださってありがとう。
また会いましょう。
この記事を書いた人

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システムファシリテーター
株式会社musuhi 取締役COO / Chief Dialogue Officer
ひとつまみの希望 主宰
世界と変わるコトバ研究所(NVC インテグラル理論 U理論 つながりを取り戻すワーク システム理論 等を統合的に扱い「私から、世界と変わる」ための研究・実践活動)
東京生まれ。大学時代から環境問題に取り組み、社会人時代に15年続く環境NPOの代表理事を拝命。2011年に鹿児島に移住、対話・ファシリテーションを鹿児島のまちづくり・地域コミュニティの文脈に導入する事業に参画。2017年4月に合同会社むすひを共同創業、「対話を核に組織が文化から変容していく」組織変革プログラムを仲間と運用。現在は「協働の質を高め、チーム・組織の中での対立も扱えるコミュニケーション:NVC」のオンラインスクール・コミュニティ事業や、第一人者たちと日本での展開に取り組む。
*少し詳しい自己紹介はこちらから。
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